愛車と共に働いた両親の昭和~平成史。そして令和高齢者ドライバー問題、我が家のケース!その②

2019年7月21日

戦後日本の高度経済成長とそれを牽引した日本のモータリゼーション。日本国内に止まらず数々の名車を世界に送り出し、現在もその確立したブランド力を武器に更なる進化を遂げています。つき子の両親も、約40年以上、昭和平成と毎日猛烈にそれら日本の名車達と共に日本経済の担い手の一人として働き続けてくれました。車には疎い私ですか、両親の働く姿を思い出す時、そこには必ず我が家の愛車達と共に働く両親の姿がありました。

その①に続き、1980年昭和55年頃から〜父が他界し、母が免許を返納し最後の愛車とサヨナラした2012年平成24年までの我が家の愛車達について振り返ってみたいと思います。

初代~4代目ハイエース/2代目カローラバン~6代目カローラバン/5代目マツダ・カペラハッチバック/トヨタ・スターレット5ドアルフレf/トヨタ・イスト




【初代〜4代目ハイエース】

トヨタ・ハイエースの歴史は奇しくも私つき子と同じく、令和元年からさかのぼる事52年前の1967年に初登場しました。当初はショートボディの標準車やトラックなどのバリエーションもあったようですが、現在はロング、スーパーロング、ワゴン、ライトバン、マイクロバスなどとなって居ます。日産キャラバンが長年の競合相手ですが、世界中で引く手あまたのハイエースの盗難率の高さは他の追随を許さず、2007年から7年連続盗難率第1位。密輸などのターゲットとしても狙われ続けメーカーは盗難対策にも力を入れています。

100万km以上もの過走行に耐えられる設計や、エンジンパワー、積載量など貨物車としての性能も高く、さらには救急車・寝台車・現金輸送車・福祉車両など特種用途自動車のベースとしても利用されています。

日本の経済の労働現場を支え続ける車の代表格と言えますね。

つき子の父は約40数年、文具事務用品の中間卸業を営んで居りましたが、その父の愛車もハイエースでした。初代H10系 からモデルチェンジされるたび、乗り継いで4代目ハイエースまでを乗り、仕事をして居りました。

新車を買うのが何よりも好きだった父なので、フルモデルチェンジのみならず、マイナーチェンジの時でも下取り価格が高いうちに新車に乗り換えて居ました。父ちゃん母ちゃん商売にはありがちですが、つき子の家も母が経理を一手に引き受けて居て、父が新車に乗り換える時は何時もちょっとした言い争いになり一悶着おきるのでした。

しかし、そこは2人とも車好きなので新車が納入されて来ると『新車の匂いがするわ〜』と言って喜んで居りました(笑)

今で言うと、金額の大きさでは車には及びませんが、スマホ好きが新しい機種が出るたびに乗り換えたり、最新中華アンドロイド端末を買わずにはいられない、そんな感じですね〜!

な、わけで、父の愛車ハイエースは我が家の一番番頭さんであり続け、仕事以外の時も大活躍してくれる素晴らし車でした。お盆休みなどでレジャーに出掛ける時は後ろにマットレスを積んで、プチ・キャンピングカーとして楽しんだり、兄の趣味のモトクロスバイクを積んだり、大勢の親戚を乗せたりと、色々な想い出もたくさんあります。そして、バイト代わりに春休みや夏休みなど、兄も私も父の仕事の手伝いをするのに、ハイエースの高く見渡しの良い助手席に乗って父に同行したりと、本当に身近な車であり続けてくれて思い返すととても懐かしく、今も愛着を感じます。

(つき子の後ろに初代トヨタ・ハイエースロングが映ってます)

(50系3代目ハイエースです)

そんな、ハイエースでしたが、父は2004年のフルモデルチェンジの際は自身の健康が優れない事と今後の商売の縮小を考え、ついに愛して止まないハイエースとお別れし、小型車に乗り換える事にしました。父も既に70才になり、車体の長い大きな車を運転する事が体力的に限界に来ていた事と、文具事務用品の中間卸業者と言う職種も、インターネット通販の台頭で、余程の大手事業者でない限り、採算の取れる商売とは言い難く、既に我が家の商いも斜陽の時期を迎えて居りました。 平成16年の事です。

【2代目カローラバン】

母は私を出産して程なく、1才8ヶ月の私をおぶって、自動車教習所に通いました。1967.8年当時はまだまだ、女性が運転免許を取得し、車を乗り回して働く事が稀だった時代、父親と一緒に自分も働こうと決意し、以後父親同様40数年間に渡り父親の右腕として、父ちゃん母ちゃん商売の社長と専務の2人3脚で商売を支え続けました。

その母の歴代の愛車が、トヨタ・カローラでした。

こちらの写真は私つき子が9才、兄が11才頃の写真1976.7年頃です。全体が映ったものが無くて解りずらいのですが、2代目トヨタ・カローラバンです。兄の左腕のあたりの後部ウィンドゥーの淵が下に長く切れ混んでいる独特のラインが見えます。この中古のカロバンが母の当時の仕事の相棒でした。

 

 

 

この頃から父親が商売を畳む2005年頃まで、常に車が3台は家にある状態でした。勿論商用車として父と母がそれぞれの車を所有し、その他によそゆき用のセダン型が、普段はシートを被り置いてあったと言う訳です。

母の仕事の相棒、トヨタ・カローラバンも昭和から平成にかけて、商業車として圧倒的な支持を得ていた車種です。当時は1台も見ない日は無いと言って良い程、経済の血液細胞よろしく日本中の道を走行していました。

それもそのはず、積み荷の上げ下ろしも楽で、広くフラットな車内はみかん箱だったら有に30個は積める程のスペースがあり、外観もシンプルで無駄のないデザインは仕事の相棒として最適。長年つき子の母は数台の後継カロバンを乗り続け、社長である父を最後まで共に支えて頑張りました。

(我が家の4代目カロバン)

カローラ・バンの歴代も長く初登場は1966年、その後26年間商用車として広く愛され続け、1994年6代目のセダンベースの高級志向かつ実用的なファイナルモデルをもって終了、後釜モデル『プロボックス』にバトンタッチしてその歴史に幕を閉じました。

私も良く母の仕事のヘルプでカロバンの助手席に同乗し、彼方此方ドライブでは無いですが、行った思い出があります。女2人ですから、決まって仕事が終了した帰りは、夕食の買い物。スーパーや百貨店に寄っては沢山の買い物をし、カロバンに積み込んで、親子2人ちょっと満足な気分で帰宅する・・(笑)仕事と生活が地続きな感じの我が家のカロバンとの懐かしい思い出です。

特に4代目カローラ・バンは思い出の車で、私が20才の頃、運転免許取りたてで運転した唯一の車です。この4代目カロバンはマニアル車でした。当時はマニアルで免許を取るのが普通、勿論オートマ車も販売されていましたが、まだまだマニアル車が主流の時代、クラッチ踏んでエンジンかけてました〜‼︎(汗)

そして6代目カローラにも思い出が! 実は1998年、母が運転し助手席に私が同乗して走行中事故に遭遇!助手席側からボンと当てられ、スポーン~と車体が横に飛ばされ運良くフカフカの畑の中に着地。母には怪我はなく打ち身の内出血ですみ、私は窓ガラスが割れ左腕に負傷したものの命には別状はありませんでした。勿論シートベルトはしていました。この6代目カローラバンは歴代カロバンの中で最もハイグレードなモデルで、当時つき子の家と取引を担当していたディーラーさんによると、事故での救命率も高かったそうです。カロバンありがとう!

【5代目マツダ・カペラ5ドアハッチバックセダン】

うちの歴代愛車の中で異色なのが5代目マツダ・カペラです。カペラは1970年からマツダが世に送り出した車で1987年4度目のフルモデルチェンジの際、歴代モデル初のフルタイム4WD車や世界初の電子制御車速感応型4WS車が設定されました。

1987年と云うと、まさに時代はバブル絶頂期に向けて日本経済が加速度を増して行くスタート地点の年。銀座の地下が1億円を超え、日経平均株価かが2万5千円を記録した年。

地上げ屋が横行し東京の地価は上がる一方。そんな時代に5ドア、ハッチバックセダン、マツダ・カペラはつき子の家の愛車の仲間入りをしました。

兄も23才の一端のサラリーマンで、バブル期を謳歌しまくっていた若造でしたので、このカペラを購入する際、父の意向より、社会人になりたての兄の意見の方が多く反映されていたようです。社会人の兄も頭金程度の金額を出したのかは不明ですが? 彼女とスキーに行く時は必ずカペラにスキー板を積んで勇んで出掛てました(笑)

2人がめでたく結婚した際に、そのままカペラは兄達夫婦と共に新居にお引っ越し、数年後夫婦にベビーが誕生し、カペラは下取りに出して兄達は新車に乗り換えました。

つまり父はマツダカペラを結婚祝いに息子夫婦にプレゼントしたと言う事でしょう。

【1998年スターレット5ドアルフレf】

さて、先に書いた様に1998年母の6代目カロバンは事故って修理不可能に、その時点でカローラバンは販売終了で後継のプロボックスに代変わりしてしまい、母も大好きだったカロバンとお別れし、64才に成って居た母は少し小型の車に乗る事にしました。

そして新しく迎えたのがトヨタ・スターレット5ドア、ルフレf。

カロバン同様後部座席を倒すとそこそこ仕事の荷物も積め、ハッチバックドアから積み込み、荷下ろしも便利な車で小回りも利く素敵な車でした。母はこのスターレットを約9年間運転しておりました。晩年の母の愛車です。




【トヨタ・イスト】

さて、ハイエースを常用して居た父ですが、2000年頃から徐々体調を崩し、眼の病なども患い2004年のハイエースのフルモデルチェンジの際に、大型のハイエースとはお別れすることを決意、母同様小型の5ドア、ハッチバックのトヨタ・イストに乗り換えて商売を続けます。しかしその頃既にうちの商売も商いとしては利益を上げて居るとは言い難く、母も『私は定年させてもらうから』と一方的に宣言!

それでも父は、よくよく病気が進行して入院するにいたるまでイストに乗って働いておりました。 父も母も共に70才。勿論兄も私も社会人に成っておりましたのでいつリタイヤしても差支えない状況でしたがが、やっぱり父は身体が元気な間は愛車を運転して自分が興した商売をやって居たかったのだと思います。

非常に運転が達者で都内のどんな複雑な道でもスイスイ運転して40数年商いに勤しんでいた父も、晩年は引っ掛け事故を起こす様になり、兄が『お父さん眼の視野が狭く成ってるんじゃない』と指摘したのがきっかけで家族も本人も眼の病の進行に気付いて、愕然と成りました。

令和元年の今、毎日の様に高齢者ドライバーによる痛ましい事故のニュースに触れる度、犠牲者の方々の無念の思いと共に、父や母が愛車と一緒に仕事を続けていた姿が重なり、なんとも居たたまれない気持ちでつき子の心もいっぱいになってしまいます。

父はその後商売を閉じ、3年程入退院を繰り返し73才の誕生日の3日前に亡くなりました。

残された最後の父の愛車イストは母が乗り続ける事に。母はスターレットの乗り心地が好きだったのですが、父の遺品のイストを乗り継ぐと決め、スターレットとサヨナラしました。母はスターレットも父の形見のイストも手放したく無かったようで『つきちゃん、また車運転すれば・・・。』と言われましたが、私は車を運転しないと決めていたので、母も納得して手放しました。

なぜつき子は車を運転しないのか?事故に遭遇して恐ろしくなった?いえ、いえ、事故のトラウマでは無く、単に免許を失効してしまったのです!1996年から98年にかけて日本を離れて暮らしており、その際、手続きし忘れて失効したと言う訳です。

日本に戻ってからもう一度取り直す事も考えましたが、自身の職種がどうしても車の運転が不可欠と言う仕事では無く、両親が神奈川県の今の街に引っ越して来た1967年当時はまだまだ車が無いと不便な街でしたが、もうこの頃は大型スーパーやコンビニもあちこちにあり、都会並みに便利な街に成って居たので別段車を運転したいとも思えず、仕事に必要が無ければ所有してもお金が掛かるだけだし、コスパが悪いので『私は乗らないよ』と宣言して居りました。

と言う訳でかつては父の大きなハイエース、母のカロバン、よそいき用のマイカーと、約40年間3台もの車を所有してた我が家も最後は父の形見のイストのみになりました。それでもその後母は77才の3月まで父のイストを運転して、買い物や趣味のお教室に出掛けたり、私のや孫の送り迎えなどをしてくれたりと5年間も父の車を乗り続けました。

しかし本人は75才頃から免許返納を考え出した様です。そろそろ自分も運転が不安だと漏らす様になり、大事な孫は乗せたく無いと言う様に。その言葉を聴いて私も自身の送迎をお願いするのも自粛する様になり、終電で駅に着いても母を呼ばず、タクシーで帰宅する様にしました。それでもその後2年程免許返納する決心がつかなかった様ですが最後は自分で決心してくれました。今思うと父も母も誰かの命を失う様な大きな事故も無く愛車達とお別れ出来て本当に良かったなと思います。

(車とお別れする日、母が私に『車との写真を撮って』と言い出して私が撮ったのがこれです)

(母もイストも本当にありがとうお疲れ様でした!)

【私の車どこー!令和日本のモータリゼーション】

しかし母の話には続きがあります。

実は免許返納し愛車イストも手放したその年の12月、母は小脳梗塞で倒れ一気にアルツハイマーの症状が進み、3ヶ月入院した後、特別養護老人ホームに入居しました。入居してしばらく経ったか頃、『私の車どこ?』『どこにいっちゃったの!』としきりと訴える様になり、一時は面会に行く度ずーとその話をし続け、さすがにまいりました。しかし母の愛車への強い執着は、車と共に働き家族を支え続けた母の人生への執着と等しいものなのだと理解しています。

兄の妻、義姉のご両親も高齢で、お父様は82才になるとの事ですが、子供達が免許返納を迫ると、自分は絶対大丈夫と頑として受け付け無いそうです。義姉も困りはてて居るとの事。どちらの気持ちもわかるなー!

令和新時代のモータリゼーション到来はい・・・?

つき子達が80才になるころまでには更なる技術革新で安全安心な交通システムが開発される事を期待します。