1984年年末~1985年1月、真冬の旧ソ連への旅。そしてペレストロイカが始まった
35年前、高校2年生17才の12月年末、私つき子は初海外旅行にチャレンジしました。旅先は今は亡き旧ソ連邦、白ロシア共和国の首都ミンスクとソ連邦の首都モスクワ!2週間の芸術祭参加ツアーでした。
【社会主義国家】
1980年代ソ連はまさに『終わりの始まり』的な状況下、オリンピック競技や芸術の世界では自国の素晴らしさを懸命に誇示してはいたものの、共産主義にもとづく計画経済は80年代ではもはや機能せず、肝心の共産党政治は老齢の長老が満身創痍な身体に鞭打って第一書記長の座に息も絶え絶え、喘ぎながら務めている有様。
しかし、スポーツや芸術的分野においては、西側の私達にとっては憧れるところもありました。それは何かといえば、才能のある子供は国が無償で英才教育を施し、オリンピックのメダリストや世界的芸術家に育て上げ、一流の芸術家やオリンピックのメダリストになれば、確固たる地位を約束され家はもとより、車や別荘、多額の年金などなど国が一生涯保証して面倒をみてくれる。まさに選ばれし成功者は様々な優遇措置を受けられました。
ただし、国家思想に逆らわなければ・・・。
なので、とうぜん国家思想よりも魂の自由を求めて当時西側の国々に亡命した旧ソ連の芸術家達もとても多かったのです・・・。
そんな旧ソ連邦でしたが、舞台芸術の道を志していた私にとっては是非行ってみたい国の一つでした。そして17才の暮れも差し迫った12月、単身冬の芸術祭参加ツアーに行く事を許してもらい10日間の旧ソビエト社会主義連邦共和国の旅に一人旅立つ事に!
令和元年2019年からさかのぼる事35年、1984年12月27日〜1985年1月6日ペレストロイカ直前の今は亡き〈旧ソ連〉への旅を綴ってみたいと思います。
【1984年、昭和59年の世界】
1984年、つき子花の17才!・・・(笑)それなりに普通の一高校生、それ以上でも以下でもない学生でした。しかし当時の若者のミーハーな風潮には同調出来ず、習い事の範囲内ではあったものの伝統的舞台芸術の分野に憧れを抱き、個人的に打ち込んで居ました。
ツイッターにインスタ、フェイスブックにライン、ユーチューブやキックトックといったか今では当たり前のネットツールなど全く存在せず、スマホは勿論、ポケベルさえも通信自由化前で、出回っておらず・・・💦
お友達との楽しいトークツールは家電一択!彼氏、彼女のホットラインは小銭頼りで公園の片隅の公衆電話ボックスで💕(笑)
情報源はテレビ、ラジオ、雑誌(本)のみ!今とは比べ物にならないくらい35年前はのんびりと牧歌的な日常に暮らしておりました。
当時高校の授業で実際に使っていた、昭和56年文部省検定済教科書 二宮書店 『高等地図帳』が手元にあります。今見ると中々興味深い世界地図で今は亡きロストワールドを辿る事が出来ます。国境線はもとより国名表記も懐かしく眺める事が出来ます。
さて、問題のソビエト社会主義共和国連邦について学校の勉強に興味の無い高校生の私つき子でさえ『危うい国家』的な認識は当然ありました。当時はまだ東西冷戦が激化していた時代、アメリカの同盟国我が日本も国際状況が悪化すれば当然政治的イザコザに巻き込まれ危険な事態に発展するかも知れない恐れもありました。しかし1980年代のソ連を筆頭に東側社会主義諸国の自国経済の実体は明らかに西側の自由主義経済圏の国々に比べて劣っており『社会主義国家の計画経済って全然ダメでしょ!』と言う事は特別勉強熱心でも無く国際政治に無関心な当時の高校生にでもバレバレなのでした。
しかし、前にも言った通り、スポーツや芸術的分野においては、憧れを抱かせる国。冷戦冷戦と聞かされてはいたものの、政治と文化交流は話しは別で、言ってしまえば、外貨のほしい社会主義諸国は、そちら方面の交流においては大いにウエルカムなツアーを当時もけっこうやっておりました。
ちなみに1980年モスクワオリンピックはアメリカ、日本が政治的ボイコットで不参加、1984年ロサンゼルスオリンピックはソ連が出場をボイコット返しをしています。
当時の旅行会社の手作り感満載な『旅のしおり』なるツアーパンフレットがあります。
1984年4月現在、1ルーブル=100カペイカは約 310円 😀・・・。
公共交通はと言えば、市内(モスクワ市内?)地下鉄、バス全線5カペイカ、約17円
トローリーバス全線4カペイカ、約14円 (ガソリンでなく架空電車線からの電気で走る排ガス0のエコなバス)
市電全線 3カペイカ、約10円、タクシーは1キロにつき20カペイカ、約68円と記載されていて、なるほどこれが35年前の社会主義かー。と今更まじまじ眺めて感慨深いものがあります。今のロシアで社会主義共和国時代のソ連に対する郷愁の念を抱く人々も居るというのも何となくうなずけます・・・。
しかし当時西側の私達に届くニュースは、限られており、鉄のカーテンの内部から漏れ伝わるのは恐ろしいものばかり、西側の一般人が旅行に行くには、国家間の主義主張が異なる国で何をされるか分からない恐ろしさがありました。
1983年、ソ連による大韓航空機撃墜事件。1984年、10月ソ連国内のアイロフート航空機の墜落事件など・・・。飛行機で海外旅行も初めて、ツアーとは言え親も友達もいない、1人参加の私は不安は無かったと言ったら嘘になります。
しかしそこは若さゆえの勢いが勝って1984年12月27日年の瀬も押し迫った17才の冬休みにアエロフロート機で一路モスクワへと旅立ちました。
【ソビエトのインフラ30年は遅れてる‼︎】
とりあえずにこやかなアエロフロート航空のスチワーデスのお姉さん⁇・・・働くソ連国民は全員公務員なのか?と考えながら、搭乗した飛行機の機内は古くさく、田舎のバスの様な座席、シートベルトも頼りなげなしょぼい感じ・・・。窓の外から翼が見えたのでしげしげ眺めると、これがまた、ポンコツ感満載なツギハギがみえて、さすがに恐怖に身が縮んで真っ青になった記憶が・・・。
まあ、初体験だったので素直に飛行機怖かったし、そもそもまともにこの飛行機飛ぶのか・・と😓
しかし後で振り返ると、その後ヨーロッパに留学していた時には各国のエアラインでフライトする機会も多く、乗務員もシートベルトで着席してしまうほどの乱気流や、強風の中の強行着陸とかの経験もした上で振り返ると、アエロフロート機での私の初フライト体験の旅は行きも帰りも機体の古臭さの割に、たいして揺れる事も無くすこぶる快適でした、機内食意外は・・・。
【白ロシア共和国の首都ミンスク滞在】
約10時間半の空の旅を経てモスクワ到着、パスポートコントロールを通過するのが手間取って、やたら念入りにチェックされて、年齢やら、出身地やら、訊問されました。
旅行者でも、西側から来た者には疑いの目が向けられているらしく、日本からのツアー参加者35名全員が通過するまでけっこうな時間がかりました。
そして、空港を出てホテルに向かったのはすでに現地時間の夜9時を回っておりました。荷物を受け取り、到着ロビーに出ると、美しいロシアの美男子美女の現地ガイドのご夫婦が迎えてくれました。しかしこの2人はガイドという名のお目付役なのです。
『みな様遠路遥々日本からお越し頂き歓迎いたします』と流暢な日本語でご挨拶してくれたのは良かったのですが、次に早速旅の注意を述べたのでした、その内容は社会主義の国ならではの忠告!
『空港や、橋、建築中の建物、軍人などにカメラを向けて撮影してはならない』
『ツアーの予定に無い場所への自由な散策はしてはならない』
『現地の一般人と行動を共にしてはいけない』
つまり、自由行動や現地人とのふれあいとかもダメ🙅♀️と言う事。
令和元年の今、こういう旅行があるとしたら、例の国、 北◉▲ くらいのものでしょうか?
と言うわけで、空港からバスで30分ほどのモスクワのツーリストホテルに向かい旅の初日はモスクワに一泊し、翌日更に空路で白ロシア共和国の首都ミンスクへ向かいました。
ミンスクでは現地の子供達の歓迎を受けたり、オペラを鑑賞や巨大なスケートリンクでフィギアスケートのショーを見たりして過ごし、又ツアーの目的でもある、ソ連の誇る芸術分野の講習を現地の先生に着いて6日間受講し、おおいに充実した刺激的な経験が出来ました。ツアーの仲間で、少し年上のお姉さま方ともすぐに仲良くなって、個人参加でも全然問題無しで楽しみました。
ミンスクと言う都市は今はベラルーシ共和国として独立した国家となって居ます。1986年、つき子が訪れた翌年、チェルノブイリ原発事故が起こり、ウクライナのチェルノブイリからの避難民が多く移り住んだ都市でもあります。古くはミンスク公国と言い、リトアニア大公国に併合されたり、ポーランド国境にも近く、ポーランドに併合されたり、ロマノフ王朝のロシアに併合されたりと複雑な歴史を経て、ソビエト連邦崩壊後、ベラルーシ共和国として独立を果たしました。ポーランドからの旅行者も多く、こちらの写真はポーランド人旅行者のおじさん達と撮った写真です。
【モスクワ滞在】
ツアー後半はモスクワ。旧インツーリストホテルに4日の滞在。今は、旧インツーリストホテル跡地に2007年に新たにオープンした5星ホテル、リッツカールトンが営業しています。いわばモスクワの一等地にあるホテルです。すぐ目の前がボリショイ劇場、赤い星が輝くクレムリン広場や聖ワシリイ大聖堂などが間近に見えるロケーション最高のホテル。
ロシアの寒さについてはどうだったかというと、当時はダウンコートなんておいそれと買える衣類ではなく、みんな普通のロングコートと帽子、厚手の手袋とロングブーツといった服装でした。
ミンスク滞在ではさほど寒いと思わなかったのですが、クレムリン広場に大きな電光表示の温度計があって、マイナス14度と示されてるのを見て、まさにロシアの冬だー!と実感した覚えがあります。しかし建物の中は何処に行ってもぬくぬくで、普通の格好で全然過ごせます。しかしホテルと目と鼻の先のボリショイ劇場にほんの2、3分地下通路を歩いて行ったとき、流石にホテルから一歩外に出た途端に、鼻の中が一瞬でパリパリに凍ったと思ったら、次に胸が痛い!いきなり冷たい空気が肺に入ったので、痛いとなり、流石にフランスの英雄ナポレオンも降参したロシアの寒さとはこれか!と思った記憶があります。
【旅の記憶】
21世紀、令和元年の今もう一度当時の共産主義の超大国ソビエトを私つき子の様な一般民がごくごく些細な体験から振り返ってみて一番印象に残っている事は何かと言うと、当時1980年代のバブル景気に突き進んで邁進している日本人の一高校生からみても『ソ連の生活水準は日本よりかなーり遅れてる!』『衰退している国』としか認識出来なかったと言う印象です。特に物不足は当時のソ連では当たり前の日常で、私達西側から訪れる観光客が泊まるホテルでの食事も毎晩似たり寄ったりで、同じ様な食材のディナーが出続けたのにはまいりました。昨日の残り?と思った料理もあったほど!しかしインスタなんて勿論無い時代、写ルンですさえも発売しておらず、食事の席で食べ物自体を激写するなんて考えても見なかったわけで、残念ながら旅のフード写真は一切ありません。お土産を売って居る免税店も、もちろん国営なので最悪のサービス!店員はヤル気無しの仏頂面。おきまりのマトリューシカと素朴な木彫の熊さんの民芸品と、母に琥珀のネックレスを買って帰ったのですが・・・。外貨が欲しければもっと頑張って品揃えしては?と思ったほど・・・。貧弱な品揃え。(精一杯の品ぞろえだったのでしょうね) 逆に、持っていったお小遣いも、たいして使う機会も無く、コスパ最強の旅が出来たわけですが・・。
そんな中、とても記憶残って居るのが、白ロシア共和国のミンスクで現地の子供達が歓迎会を開いてくれて、地元の民謡や劇で歓迎してくれて、ロシアのお母さん達が家庭で焼いて持って来て下さったおもてなしのロシア伝統の菓子がとても美味しかった!
国や政治思想とは全く関係ない、素朴で大きくて、牧歌的なロシアの風土に根ざした味がしました。
もっと市民の皆さんと交流をしたかったのですが、当時は政治思想の違う国民同士が触れ合うにも限界があり、せっかくロシアのお母さん達が焼いて持って来てくださったお菓子をその場で感謝しながら、または意見交換しながら皆さんと一緒に頂く場は設けられず、私達ツアー参加者各自で袋に詰めてホテルに持ち帰ってホテルの部屋で頂きました。
当時の分断された社会で暮らす庶民の悲しさを実感しました。
乾いた細かい雪が舞う、灰色の空が印象的な旧ソ連の冬の旅も終わり、高校の新学期が始まる数日前、1985年1月6日に日本に無事帰国しました。
【ベルリンの壁崩壊から30年】
同年、老齢のソビエト共産党書記長コンスタンチン・チェルネンコが就任わずか1年足らずで死去。1985年3月、歴代のソ連共産党書記長のなかで最も若いミハエル・ゴルバチョフが登場し、ガタガタなソビエト共産党の屋台骨を大改革すべく、ペレストロイカが始まりました。
このゴルバチョフの登場とペレストロイカ政策こそが、その4年後のベルリの壁崩壊に至る一連の世界変革の始まりでもあり同時にソビエト社会主義連邦共和国の終わりの始まりでもありました。
今年は1989年ベルリンの壁崩壊から実に30年目にあたり、”歳月飛ぶがごとき”の感があります。家のテレビでベルリンの壁崩壊の有名な、東西のベルリン市民が壁によじ登りハンマーでベルリンの壁を打ち砕いて居るシーンをリアルタイムで見た時の驚きと歴史の転換点をこの目で目撃した事への感動が蘇ります。30年前のあの日、確かに世界は平和の名の元に一つに繋がりあう事が出来る!私達全世界の市民が声を合わせれば世界はより良い方向へ向かう事が出来る!もう分断する壁など必要無い!東西冷戦は終った!と、世界中の誰もが感動を持って共感したものです。
その後1991年のソ連崩壊後にバルカン諸国で起こった悲惨な出来事の数々をへて、2019年の現在、新たな分断と不寛容が世界を席巻している現実があります。
そしてアメリカ合衆国中心の世界経済、資本主義経済の終わりのはじまりも始まりつつあると・・・。
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