昭和、平成 我が家のモータリゼーションと愛車達。そして令和高齢者ドライバー問題 その①

2019年7月21日

60年代.70年代.80年代 ダイハツハイゼットライトバン、三菱コルト1000、3代目日産スカイライン、ハイエース、2代目コロナ・マークⅡ、3代目マークⅡ。戦後日本のモータリゼーションと我が家の愛車達との思い出について綴りながら、令和日本の高齢者ドライバー問題について考えてみたいと思います。




 

【戦後日本のモータリゼーションと令和高齢者ドライバー問題】

令和が幕を開けて約一月半、毎日痛ましいニュースが流れております。高齢者ドライバーによる相次ぐ交通事故のニュースです。これは今の日本にとって深刻かつ2重3重の意味で悲しむべき事態と言えます。この様な状態が一刻も早く打開され社会生活を送る全ての人々が安全かつ快適に人生を送れる様な日が来る事を切望します。

なぜ2重、3重に悲しいと書いたかというと、平和な日常をおくっていた人々が突如痛ましい事故に巻き込まれ尊い命を奪われてしまうという事。そして加害者の高齢ドライバーは戦後日本のモータリゼーションと共に人生の大半を歩んで来た世代、戦後経済成長の担い手として働きき、国際社会の一員としての日本を世界に知らしめた世代の人々だという事。そしてその日本の経済的成長に大きく寄与したのが言うまでもなく日本の自動車産業に他ならないと言う事です。

ここ数週間運転免許証の返納者数も増えているとの報道もありますが、そうも行かない事情の人や、地方都市にお住まいの人は車を運転しないと生活自体成り立たない場合もあります。あらゆるケースで表面化する生活格差は令和時代の大きな社会問題です。そしてそう言っている最中にも毎日の様に痛ましい事故のニュースは引きも切らずです・・・。

ここで我が家のケースについてお話すと、つき子の父親も母親も1934年昭和9年生まれで母は今年で85歳。免許証は78歳の時に自ら返納すると言って返納し、最後に乗って居た車は親戚の息子さんに譲りました。父は12年前2007年に72歳で亡くなりました。亡くなる数年前から闘病生活により車の運転は出来なくなりましたので両親の免許証返納の件では苦労しませんでした。私自身は現在、車は所有していません。私の3つ年上の兄は私の知る限り今現在までに5台マイカーを乗り換えて居ます、しかし常に一家に1台と、ごく一般的。令和の昨今、無駄な出費をしない考えから車を所有しない家庭も増えて居ます。もはや高級車を所有し乗り回す事がステイタスシンボルだった時代は等に過ぎさってしまった様です。しかし実用面から言っても今も変わらず現代生活には無くてはならない交通手段です。令和日本の技術力の発展で早く安全な自動運転車が普及する事を願います!

実は、今回の記事を書こうと思い立つまで、私つき子は車の事についてはさほど興味も無く、車の名前もたいして知らず、自動車メーカーも、日産、トヨタ、くらいしか思い浮かばず、ブログに書けるのか悩んだのですが、私が育って来た時代と育った環境には昭和60年代からの日本のモータリゼーションを彩った名車達が数多く居た事に気づきました。そして、私の中の記憶を辿って、車好きだった両親のエピソードなどを思い出しながら、古いアルバムをめくりつつ、私が生まれる前、私の両親が出会い、結ばれ、兄が生まれた1964年頃のマイカー達、そして私つき子の記憶にもあるマイカー達の事、そして我が家のマイカー達とのお別れなどについて書いてみようと思いました。なので専門的な部分はどうぞご容赦ください。




【1961年、昭和36年初代ダイハツハイゼットライトバン】

1934年、昭和9年生まれの父親が初めて手に入れたマイカーは、ダイハツハイゼットライトバンでした。

父は10人兄妹の五男!男兄弟の末っ子、長男は家を継ぎ、次男、三男、四男は東京に出て公務員に、つき子の父も上の兄を頼って東京に出ましたが、公務員にはならず、起業!1960年代好景気に沸く東京の目黒区を拠点に商売を始めました。当初バイクで商売に走り回って居たそうですが、程なく車を手に入れ商売に励みます。それが初代ダイハツハイゼットライトバンでした。そして結婚もせねばと言う事で嫁を迎える運びに、つまりつき子の母とめでたく結婚。ダイハツハイゼットライトバンと共に2人の新婚生活もスタート!1963年頃の事です。ちなみに2人の出会いは、昭和のマッチングイベント『お見合い』です。初デートは『全日本自動車ショー』(現在の東京モーターショー) との事。昭和30年代の若者のトレンドだったのでしょう。私の産まれる前なので、母と父の新婚当初の写真の中でしかダイハツハイゼットは観たことがありませが、母によると結婚後初めて母の郷里に里帰りした時に、このハイゼットでお婆ちゃんも乗せて一緒に楽しくドライブしたそうです。(笑)

1963年と言えば前回東京五輪の前年、写真の道にご注目ください、周りに何も無い!反対車線後ろに小さく写っている車は三輪トラックです。

来年2020年ダイハツハイゼットはなんと60周年還暦を迎える様です。軽トラ界のレジェンド、ダイハツハイゼットは頼りになる相棒として今も変わらず愛され続けて居ます。

 

【鈴鹿を熱狂させた名車、三菱コルト】

出典元 https://www.mitsubishi-motors.com/jp/innovation/history/detail/#year-1960

つき子の3歳年上の兄は前回東京五輪の年、1964年生まれ。この年の5月、鈴鹿サーキットで行われた第2回日本グランプリ自動車レース、ツーリングカー・T-III部門で1位から4位までを独占したのが、三菱コルトでした。車好きの2人はさっそくこの車に魅力された様です。三菱コルトはさっそく我が家のマイカーに成りました。この写真の兄は赤ちゃんですね。 マイファーストベイビーと新車試乗の一枚でしょうか、車のシートにビニールが掛かったままです(笑)

1964年昭和39年、国内の主な高速道路が次々に開通、好景気に沸く日本でモータリゼーションは更に加速度を増して行きます。高速道路で白の三菱コルトの横につき子の両親と母に抱かれた兄、後ろの車種も気になる一枚です。

 

【3代目スカイライン、通称ハコスカ!】

1967年、私つき子は東京都目黒区の病院で産声を上げました。猿の赤ん坊の様なちんちくりんな女の子でした。(笑)

時を同じくして、つき子の両親は人が押し寄せ地価は高騰し飽和状態の東京から、新たな新天地を求め発展著しい東京近郊の都市に拠点を移し更なる商売の発展を目指す事に、神奈川県の新興都市に土地を買って念願のマイホーム件営業所を構えます。私つき子も目黒区の病院から直行で神奈川へ、神奈川県の住人になりました。52年前の事です。

両親の思惑通り商売は忙しくなり、父親一人では手が足りない、ついに母も運転免許を取得することにし、1才6ヶ月の私をおんぶしながら自動車教習所に通ったそうです。女性が免許証を取得するのはまだ珍しい時代、教習所の同期も大半が男性で女性は母の他数名でした。そして実技で落ちない様に夜、家の近くの空き地で父が教官になって三菱コルトで母を特訓したそうです。(やってはダメです危険‼)

特訓のかいあって?母も無事合格、新車買っちゃうぞー!となりコルトに変わり日産スカイラインC10が我が家のマイカーに。

このスカイラインは両親のお気に入りで当時のアルバムに写真も沢山ありす。親戚のお姉さんが来ると横に立たせてパチリ、近所の子供を立たせてパチリ、兄をフロントに乗せてパチリ、勿論私と母の写真も! 愛車感満載な写真ばかりです。そしてお決まりな思い出も、箱根の温泉に家族旅行、箱根スカイラインをスカイラインでドライブ(笑)

この通称『ハコスカ』は今でも人気が高くネットで調べると、中古でも高額の値段が付くものもあるとか・・・。残念、キューバ人みたいに、メンテナンスして持っとけばよかったー!

 

【2代目 コロナ・マークⅡワゴン 】

1974年、母もすっかり車の運転にも慣れ、父の商売の右腕として家計を支えておりました。つき子7歳の七五三の記念写真の後ろにブルーの車体がチラット見えます。

この頃になると家には常に3台の車があり、父親は働く車の代名詞ハイエースを仕事で乗っておりました。そしてこのブルーのコロナ・マークⅡワゴンと車種は覚えてませんがシルバーグレーのバンも所有していたと思います。(カロバン?)日曜日など仕事が休みの日は駐車場がわりの庭が車でいっぱいで、道に寄せてもらって遊んだ記憶があります。後ろに車体後部だけ写っているのが初代ハイエース・ロングバンです。

 

【3代目マークⅡは高級感満載のワインレッド4ドアセダン 通称ブタ眼】

1976.7年 つき子は小学校4.5年制の頃、3代目マークⅡが我が家のマイカーになりました。この車が納車されて来た時、ワオ!と歓喜したのを覚えています。

これまでに無く高級感漂う車体にワインレッドというか、レッド系ダークブラウンというか、外見も内装もヨーロピアンテイストでこれは凄いぞ!と思いました。小生意気にもカッコ付けて写真に収まってます、そういった気分だったのでしょう(笑)  ただこの車、ライトデザインからブタ眼の愛称がついています。

60年代70年代続く80年代も誰もが良く働き、良く消費し、良く蓄財出来た良き時代でした。

1980年、昭和55年つき子の両親は更に商売を大きくしたいと考え、同じ地域内で通りに面し商売に的した土地を購入、新店舗兼自宅を新築し引越しました。

そして我が家のマイカー史もまだまだ続きます。 (その②へ続く